KCN京都通信

きまぐれあっこの歴史巡り③

こんにちは。あっこです。
暑い日が続きますが、皆さまお元気ですか?

きまぐれあっこの歴史巡りでは、歴史を感じられる場所を紹介しています。

今回は、京都府南部の「巨椋池(おぐらいけ)」についてご紹介します。
皆さまは「巨椋池干拓地」を、ご存知ですか?
昔は「巨椋池」という池がありましたが、現在は干拓地となり池は残っていません。
しかし、名前の通りその規模はとても大きく、干拓地には今も「巨椋池」があった名残があります。

今回は久御山町・宇治市を中心に「巨椋池」にゆかりのある場所を巡ります。

「巨椋池」とは、京都府南部の久御山町・宇治市・城陽市にまたがり存在した池です。
京都を流れる大きな川、宇治川・木津川・桂川が流れ込み、河川の改修工事で姿を変えながら、
昭和初期に干拓されるまで地域の人たちに親しまれてきました。

「巨椋池」には、たくさんの淡水魚が生息しており、漁業が盛んだったそうです。
まず始めに私が向かった久御山町の東一口(ひがしいもあらい)は、「巨椋池」の西端に位置する漁業集落でした。
現在は、巨椋池排水幹線堤の両岸に200本余りの桜の木が植えられており、春にはお花見スポットとして賑います。

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桜の咲く頃に、もう一度来てみたいです。

池には魚を狙ってやってくる鳥や、他の生物も生息していたそうです。
東一口にある「大池神社」では、「巨椋池」に生息していた生物を祀っています。
江戸時代には「巨椋池」のことを「大池」と呼んでいたそうです。
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「巨椋池」は、漁業の他に蓮で有名でした。蓮が見ごろの7月~8月には蓮見物の船で賑わったそうです。
東一口洗い場の近くには、昔の名残で現在も蓮を育てている農家もありました。
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(写真上:洗い場 写真下:蓮畑)
こちらの洗い場では、周辺の田畑でとれた農作物を洗います。

自然豊かな「巨椋池」でしたが、明治34年に行われた大規模な河川工事の後は
水路によって結ばれただけのほぼ独立した池になってしまいます。
そのため、水のはけ口を失った「巨椋池」は徐々に水質悪化・漁獲高の減少・マラリアの伝染が起こりました。
そこで、昭和8年。干拓が行われることになり、田畑や住宅地へと姿を変えました。
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こちらは久御山町・宇治市に広がる田んぼの様子。

私は今の大きさでも広いと感じたのですが、開拓当時の事を知る人の話によると、
「今は道路や住宅が整備されたが、開拓された当初は見渡す限りの水田が広がっていて
池の大きさを感じる事ができた」との事。
撮影に行った日は天気に恵まれ、綺麗な青空の中に広がる田畑を見ることができました。

干拓とは埋め立てとは方法が違います。
池にたくさんの水路を作って、そこに水を集めていき、そしてその流れを1つに集め、
そこから大きな川の本流に流し出すことが干拓です。
そして、その水路の終着点が排水機場です。
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水量が多くなってくるとポンプで排出します。
こちらの久御山排水機場周辺では、干拓地のそばに堤防を挟んで宇治川があり
干拓地の水は宇治川へ流されるしくみになっています。
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また、開拓された水田への水は、しばらくは宇治川から取水口と用水ポンプによって取水され、
水路によって送られていました。しかし、地域や社会の変化から、宇治橋のすぐ下流にあった桶門やポンプ場は既に取り除かれ、
使わなくなった水路は地下へ埋めることになりました。この水路はかつては「巨椋池干拓地の命の水」であり、
先人たちが築いてきた歴史を記憶に留めるため、この水路を整備して「巨椋池 水のみち」が整備されました。
こちらは宇治市の宇治橋近くにあります。
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ここには色々な種類の木花が植えられており、花が咲く頃は素敵な雰囲気なので
NHKドラマの撮影でも使われたことがあるんですよ~。
こちらの石碑が入口の目印です。
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地元の小学校では、社会の時間に「巨椋池」について必ず学びます。
「巨椋池」があった時代のことを知っている人たちは少なくなってきていますが、「巨椋池」は、今も地元の人たちの心の中に生き続けています。